安全という幻想 エイズ騒動から学ぶ

2017年9月12日

エイズという言葉を初めてきいたのは幼稚園の頃だった。幼稚園児だった私は遊具で遊んでいた時に気に食わないことがあったのだろう。一緒の場所で遊んでいた年上の子に唾を吐きかけた(ごめんなさい)。すると、その子から「うげ、エイズがうつる」と言われて、よくわからないが傷ついた。

安全という幻想: エイズ騒動から学ぶ

薬害エイズ事件。小さい頃にテレビで見ていた印象では、よくわからないけど判断をしくじった老けた医者がいて謝っている。行政にも怠慢があったようでエイズの感染者が一杯出て大変な事になったようだ。というものだった。しかし本書を読んで認識が随分変わった。当事者として振り返った本書も、きっと記憶の修飾があり必ずしも真実ではないことが記載されているかもしれない。それでもなお未知の病気の対策へ奔走した当事者には敬意を抱かずにはいられない。

リスクの判断と行政判断を分離することである。リスクの判断については、その結果にかかわらず、あの狂気のようなバッシングを受けることがないようにする必要がある。裁判官と同様に、基本的な人権が保障されなかれば、日本では国家の危機管理において重責を果たしてくれる人を得られなくなる。

マスコミの負のパワーでソーシャルエネミーにされる恐れがある仕事など、恐ろしくて引き受けられた物ではない。

日本の紛争解決は以下のような特徴があった・・・一種の社会運動となり・・・一人当たり4500万円で、世界最高額であった。さらに構造的な問題よりも、個人の責任追及に焦点が当てられたことである。

筆者の郡司氏は薬害エイズ事件の総括はできていないという。全くその通りだと思う。不確実な状況での判断に対して、わかりやすい個人の責任追及に焦点をあてて劇場化する風潮は根強い。

C型肝炎の補償制度は・・・薬剤によるHCV感染として大きな進歩であったことは確かである。しかし、・・・問題はないのか、充分に検討する必要があるだろう。例えば、他の疾病対策とのバランスの問題・・・難病対策の国費助成の総額は約400億円程度で、HCVの給付額とほぼ同じ規模である。

アメリカの連邦議会に法案を提出する場合は、・・・法案による義務的支出予算の推定額が一定の限度を超える場合には、他の部分の歳出削減または歳入増加に必要な財源確保の案も合わせて提案することが義務づけられている。・・・日本の立法府には、このような自律的仕組みがないので、財源の確保は行政に押し付けられ、財政再建はどんどん先送りされる。

ない袖はふれない。

第1章から第4章までのエイズ騒動の振り返りは読み物として興味深い。そして筆者の遺言であろう第5章「より良い社会づくりのために」は共感すること多い。専門家の立場としてはコミュニケーション能力を高めることが求められていると感じる。

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